秋山庄太郎が花をライフワークにしたのは45歳頃。パリ遊学から帰国して5年後、「東京オリンピック」(1964年)の翌年あたりからです。東京都心の戦後の風景が変貌を遂げていくなかでのスタートでした。近所の花屋さんにぶらりと立ち寄り、足元の鉢植えの花をふと見下ろした秋山は「造形美をとらえるため、花を真上から写してはどうか」という着想を得ました。それは秋山にとって新鮮な発見だったといいます。
 それからスタジオで試作を重ね、大判カメラを真下に向けて撮るフラワーアレンジメント的な作品を発表。図鑑的な植物写真とは一線を画す、花の写真芸術を生み出しました。華道家からは「我々がやるべきことを写真家に先を越された」とも評されました。さまざまな小物を配した静物ジャンルとの融合を感じさせる作品もあります。

 ところで、室内でこうした花撮影をする場合、照明をどうするかを考えるのもたのしみの一つ。カメラのキタムラのネットショップ(https://shop.kitamura.jp)でセレクトするのもいいでしょうし、ご自分なりに工夫されてもいいでしょう。たとえば「花に光がうまく当たらない」とき、アルミホイルを厚紙などに貼れば「レフ板」ふうになります。身の周りを見渡すと、案外応用できるものがあるかもしれませんね。
 ちなみに秋山庄太郎写真芸術館のワークショップでは、室内撮影用照明として『フォトラ』(照明2灯セットで左右から照射可能)、『LPLウェブミニスタジオセット』(真上から被写体を照射)などを利用しています(どちらも3万円程度で購入)。(文・秋山庄太郎写真芸術館)


↑ 写真をクリックすると拡大してご覧いただけます。 






 真上からの俯瞰作品の後、今度は真横からの撮影を始めた秋山庄太郎。背景はカラースプレーで着色した手作りのボードなどを使っています。吸水性スポンジ(オアシスと称されたりします)を使って花を生け、四角いフレームのなかに花を構成します。こうした作品を秋山は「写真生け花」と呼びました。「花屋をこまめにのぞいて、花材をそろえ、室内で秋山流家元のつもりになって、写真生け花を続けて飽きることがない」とも述べています。
 なお、秋山庄太郎は母親が生け花の師匠をしていたこともあって、子供のころから生け花に親しんでいました。写真が趣味でもあった庄太郎少年は、生け花も写真も「不等辺三角形」の構図が基本ではないかということに気づき、生け花から学んだことは写真に活かすようにした、と随筆に記しています。(文・秋山庄太郎写真芸術館)

↑ 写真をクリックすると拡大してご覧いただけます。 





 学生時代の秋山庄太郎は、教科書を持っていない日はあっても、カメラを持っていない日はなかった、と言われています。晩年になっても、手ぶらで歩いている秋山庄太郎の姿を見かけた人はあまりいません。どこに行くにもカメラが一緒でした。散歩をしていても、「電信柱が何かに見えないか」とか、「青空にぽっかりと浮かんでいる雲がアンパンに見えないか」など、「街を歩きながら擬化し得る空間を常に凝視するせいか、一向に退屈しない」と撮影メモに記しています。そのような意識のもと、遊び心あふれる抽象作品も撮っていました。
 公園の片隅や道端など、見逃してしまいそうなところでひっそりと咲いている花にもレンズが向けられ、「思わず声をかけたくなることがある」と心境を述べています。秋山スタジオ(西麻布)やアトリエ(南青山)近くには桜の名所でもある青山霊園があり、ぶらり散歩で訪れる撮影地の一つでした。掲載作品は南青山での撮影です。
 屋外「花」撮影で用いる使用機材は、カメラがPENTAXのマニュアル35ミリ一眼レフ、レンズは中判カメラ用のソフトフォーカスが好みでした。(文・秋山庄太郎写真芸術館)



あきやま・しょうたろう
写真家/1920年東京・神田に生まれる。早稲田大学商学部卒業。戦後、写真館(秋山写真工房)、近代映画社写真部を経てフリーランス。女性ポートレートを数多く手がけて活躍。40代半ば頃から花を本格的に撮り始め、以後ライフワークとする。日本写真家協会、日本広告写真家協会、二科会写真部創立会員。紫綬褒章・旭日小綬章受章。2002年秋山庄太郎「花」写真コンテスト創始。2003年写真賞選考会場にて急逝。享年82。